岩坂彰の部屋

第38回 自分の名前で本を出したいですか

先日、こちらの翻訳道場でもお馴染みの斎藤静代さんとお話をする機会がありました。翻訳の仕事のこと、翻訳を教えること、世の中のこと、なんだかん だと話題は尽きず、まとめも結論もないおしゃべりでしたが、気がつくと2時間も話し続けていました。楽しい時間をありがとうございました>斎藤さん

思い出すままに書いてみますと

・ 口語表現が弱いんですけど
・ バラエティ番組、見てますね
・ 編集者に勝手に手を入れられると頭に来ますよね
・ 自分の名前で本を出したいですか
・ 翻訳学校で教えられることって
・ 次の世代に伝えたいこと
・ 翻訳書って、読まれなくなってる?
・ 村上春樹はなぜ外国人にウケるんでしょう

と、まあこんな具合。そんななかで心にひっかかっているトピックがいくつかありますので、これから折に触れてご紹介していこうと思います。

「自分の名前で本を出したいですか」

斎藤静代さん

斎藤さんや、サン・フレアの当コラムの担当者さんによると、翻訳学校で出版翻訳のコースを受講されている方の大半は、自分の名前が表紙に印刷された 本が書店に並ぶことを夢見て頑張っているんだというのですね。斎藤さんご自身も、「自分が仕事をしたっていう証し、生きてきた証しを残したい」という気持 ちがあって、やはり名前を載せたいとおっしゃってました。

私自身はわりと、名前の出る出ないにこだわりはないんですよね(もちろん、名前を出すことによってあとの仕事につながるという営業的な意味と、責任 の所在を明らかにするという意味では、出す必要があるんですが。でもそれは表紙でなくてもかまわない)。実際、雑誌やウェブの記事翻訳では名前が出ません けれども、それを残念だとかあんまり思いません。産業翻訳の世界では、最初から名前が出ないこと前提ですよね。

訳されるべきものが訳されることが大切なのであって、それを訳すのが自分でなくても別にかまわない、と私は思っちゃいます。ちゃんと訳されてさえいればですけどね。

「生きてきた証し」という気持ちは、わかる気もします。でもね、斎藤さん、これは後になって思ったことなんだけど、「証し」は、名前じゃなくて、訳文そのものなんじゃないかな。

話は飛びますけど、坂本龍馬って、そんなにすごい? って思っちゃうんですよ。実は中岡慎太郎のほうが重要だったとか、そういう話ではなくて。たし かに才能のある人だったのだろうし、その後の歴史を変える働きをしたのだと思います。でも、それは結果論ですよね。あのような形の維新にならなければ、 まったく忘れ去られたままだったかもしれません。それに、現代社会にこれほどの影響力を持っているのは、司馬遼太郎さんや、ひょっとすると福山雅治さんの 力も働いているわけで。

当人は、ただ当時の世の中で、自分にできること、するべきだと思うことをしていただけなんじゃないかな。そしてそれは、たとえば池田屋のお隣の無名の商家の主人だって、きっと同じだったと思うんですよ。

こんな感覚を持っているからでしょうか、自分が後世に何かを残すことについて、あんまり頑張ろうという気持ちにならないんです。普通にやっていたって、あるいはやっていなくたって、残るものは残るだろうし。いいかげんすぎますかね。

訳文は誰のものか

岩坂彰さん

斎藤さんは、これは翻訳ではない原稿だそうですけれど、文体を編集者に書き換えられてしまい、それならいっそボツにしてほしいと思った経験をお持ち とのことでした。その話から、結局本の(文章の)責任は誰にあるのかって話になって、そこで名前を載せるかどうかという話につながったのでした。

責任の所在を明確にするという意味では、名前を出すことは大切です。実際、以前紹介したウェブニュース翻訳の黎明期に、私は翻訳者の名前を記事の末尾に明記する習慣を始めました。いまでもニュースサイトによってはこの習慣を引き継いでくれているところがあります。

当時私がニュース翻訳で名前を出すことにこだわった理由は、翻訳者に、下訳感覚ではなく、責任を持って訳してもらいたかったからでした。記事という のは、完成までに複数の人間の手が入ります。一次翻訳者は、どうせリライトされてしまうんだから、と無責任になってしまうことがあります。それを防ぐため の名前の明示でした。

けれども、実はこれはあまりうまくいかなかったんです。当時の私は、本当の責任者は誰か、ということについて考えが足りなかったのでしょうね。

私の知り合いで、他人に大きく手を入れられたものについて、これは自分のものではないから名前は出さないでほしいと言ったことがあるという人がいます。そう、責任感の強い人ほど、そういうことになるのです。結局名前が残るのは、こだわりのない人ばかり……

今思うと、ある種の翻訳はチームの産物であると認めてしまえばよかったんですよね。その中で最終責任者とコントリビューターたちを明確にすれば。そ してそれは、表に出なくても情報として引き出せるようになっていれば。ウェブなんだからそれは可能だったんです。これから電子書籍の時代、そういうことに もひと工夫あっていいかもしれませんね。

(初出 サン・フレア アカデミー e翻訳スクエア 2012年8月27日)